高度経済成長期の幻影。「磯野家の謎」
なんか最近、書店の店頭で、東京サザエさん学会の新刊というのを見かけた。
東京サザエさん学会といきなりいわれても、なんのことやらですよね。20年以上前にベストセラーになった「磯野家の謎」の執筆グループである。
nlab.itmedia.co.jpいわゆる「謎本」ブームの先駆けになった本で、92年ごろにはこれに続けとばかりにいろんな作品を題材にした謎本が相次いだ、らしい。自分が好きに本を買うようになったころにはもうブームが収束していたので、主に古本屋で見かけることの多い系統の本だったように思う。この「磯野家の謎」も例外ではないが、世紀が変わってからも何度か装丁を新たにして再販されているところは店頭で見たことがある。
版元としてはデータハウスがこの手の本をよく出していた。何かの謎本を買ったときに本の中に閉じこんである広告ビラに「〇〇の秘密」がずらっと並んでいたのをなんとなく覚えている。
で、そのデータハウスと並んで謎本の大手版元であったのが、飛鳥新社で、磯野家の謎はこちらから出ていた。というか経緯を考えればこっちが本家かもしれない。これはちょっと余談なのだが、「トンデモノストラダムス本の世界」のブックガイドで山本弘氏がMMRのネタあかし同人誌を「データハウスか飛鳥新社で出してくれないかな?」と書いていたのはたぶんそういう事情を踏まえての話。ほかにもいろいろな出版社が参入していたようで、今でもブックオフや普通の古本屋の新書コーナーにときどきこの系統の本を見かけることがある。
一応謎本とはなにかということについて書いておくと、フィクションの登場人物や舞台について、作中の描写などをもとにいろいろ謎解きをしていったり、特に表に出ていない性格や行動の特徴について解き明かしていこう、というていの本である。「磯野家の謎」では、シャーロッキアンに自分たちの活動を例えている。
もちろんあまり作者がそこまで深く考えてなかったりすると途中で矛盾が生まれたりすることもあるのだが、それも敢えてネタとして処理せずに読み解いてしまう。例えば「磯野家の謎」では、トイレがたくさんあるという点を指摘している。別に上から見た間取りを見たらトイレがたくさんあったという話ではない。登場するたびに、廊下や庭との位置関係が食い違っているので、つじつまをあわせようとするとこういう答えになるというわけだ。
もっとも、上の記事や帯に書かれている惹起などを見る限り、今回新しく出た本はちょっと趣向が違う内容のようである。しかし、「磯野家の謎」の奥付けでは「テレビ・アニメーションなどは、研究対象としていない」とあったのに、今回はどうやらTV媒体も扱っているようだ。いったいどういう風の吹き回しなのか…… まあいいか。
で、本題は磯野家の謎である。続編「磯野家の謎・おかわり」も含めてだが。
「磯野家の謎」は雑学というかオタク的な研究というか、そういう系統の本としてとらえられがちだし、実際そうだと思うのだが、よくよく読んでみると著者の別の意図も読み取ることが出来る。
それは、たぶん、高度経済成長によって失われた日本の姿、だと思う。
別にこれは、私の思い込みというだけではない。「編者あとがき」で東京サザエさん学会会長、岩松研吉郎氏はこんなことを書いている。
敗戦、復興そして高度成長。-われわれのどの世代をとっても、生活の出発点は、「戦後」といわれるその時期にある。そして今やそれは、はるかな過去の記憶の彼方にうずもれている。『サザエさん』は、まさにその時期、日々をいきていた。現在それが、全六十八巻の形でわれわれの前にのこされているとすれば、それらは、今日のわれわれの生活と感情の始原をかたる「神話」といえるだろう。(正・p223)
だとすれば、『サザエさん』をみてゆきながら、われわれは、戦後とそれ以後のみずからの深層と表層をかんがえることになる。それは、われわれの自己確認に他ならず、自分たちのタテマエとホンネ、演技と日常とを、『サザエさん』を媒介に点検することでもある。
―大仰にいうと、「サザエさん学」の方向はこういったものだが、「学」の対象の性質からして、それは半分冗談である。というよりも、冗談と真率は判別しがたくいりまじっている。(正・p223)
二番目のは引用の仕方がちょっとぶつ切りだが、ここが受けている前段まで引用してしまうと相当長々と引用することになるので。
このような著者らのイデオロギーの所在は、高度経済成長をすぎたあとを語る項目でかなりはっきり見出される。たとえば、問30で「磯野家のインテリアは、なぜ急に洋風になるのか?」という問いが出されている。回答とはこうである。
答 波平が万博で悲しい事実に気づいてしまったから。
著者らは単行本61巻以降で、磯野家のインテリアが急に洋風化する、という。そんなこと意識しないと見れないわけで、「問」もなにも著者が気づいたことをベースに問にしたに決まっているのだがそれはそれとして、この答えを60巻で作中に登場した大阪万博に見出している。
ここで波平は子供たちをともなって万博見物にでかける。そして彼は戦後の日本が急スピードで変化してきたことにようやく気がついたのだろう。波平は寂しくなった自分の頭をそっと撫でながら「明治は遠くになりにけり」とそっとつぶやいたに違いない。家の中を洋風化することは、世間から取り残されないための必死の努力だったのだろう。(正・p103)
この後の波平は、物忘れが日に日にひどくなり、一家の厄介者へと身分を落としていくことになる。(正・p103)
続編の問36「時代が進むにつれて、磯野家周辺でもっとも変化していったものはなんだろうか?」に答えはこうだ。
すべての環境と人間。後半は磯野家の幸せにも、暗く微妙な影が落ちはじめた。
このあたりは実際、サザエさん本編を読んでいると後半の巻でそういうものを感じるのは確かにも思う(全部きちんと読み通したかは自信がないが、それなりの巻には目を通したことがある)し、あるいは連載の末期の世情を反映しているのかもしれない。
ただこのあたりの問題は、ベストセラーになった「磯野家の謎」を受けて批判的に述べた個所のある「サザエさんの秘密」でも触れられていた。今手元にないので具体的にふれることはできないのだが、やはり似たようなところが指摘されていたように思う。
一方、サザエさんが日常の反映としてみている回答の際たるものは、問9「磯野家の生活水準はどのくらいだろうか?」
ランクをつけるとしたら生活レベルは中の中。ただし世田谷に持ち家があることを加味すれば、中の上に少し足をかけたあたりだと思うが、はたしてどうだろうか。(正・p40)
問14で磯野家の食卓を分析した箇所で、「豆腐で栄養を取っていた」とするのも、古い日本人の食卓を想定していることが想像できる。もっともここではイメージに反して朝食にパンがよくのぼることにも触れているので、資料に基づいた物言いではある。
別にウソを言っているとは思わない。ただ、謎本という資料に基づいた本でも、その裏に著者の意図はやはりこもっているということである。あるいは、だからこそベストセラーになったという邪推もできるかもしれない。